昭和48年01月12日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
天地金乃神様のおかげを頂かなければ、私ども立ち行く事ではないのにもかかわらず、そのおかげの事も知らず。知らんどころか反対に、思い違い考え違いをして無礼をいたし、そういう無礼が重なり重なって、人間は難儀を受けておるんだと、前半のところに説明して下さってあるわけですね。氏子の家屋敷神仏の宮寺と言うても、氏子の家屋敷と言うてもその地所、全部天地の親神様の地所だと、と言うところはいわゆる思い違い考え違いの事を言うておられる。
取分け日柄とか方位とか、方角日柄ばかり見てと言うところは、いよいよもって見当違いの事を、言うたり思うたりして、それが天地に対する所の天地金乃神様への、ご無礼になっておる。そういう考え違いの一番大事な所大きいを所を指摘して、そこを分からせ様として下さり。この度生神金光大神を差し向けて、その訳を聞かせて下さり、願う氏子にはおかげを授けて下さり。
同時に言うなら天地の道理、神様の御心そういう事柄を、事細かに金光大神を通して、理解申して下さる。そこで私共はその理解を理解として、理解させて貰い天地の心に適うた、道理に適うた生き方をさせて頂かなければならん所がです。末々まで繁盛いたす事と言う事になるのです。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、これが合楽が今日開教五年、椛目を含めて二十数年になります。その二十数年の間願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせて下さった。それはもう噛んで含める様な御理解だった。
その記録が例えば御理解集とか、又はテープに納められて、日々沢山な感話集が出来ておる訳です。それはもう何処を紐解いて見てもです、もう本当に二度頂くと言う事がない程しであった。もういつも日々が更なと言うか、新たなと言うかその一つの御教えに、この様な深さが、そして広さがあるのかと、只々これは私自身説く私が驚くばかりであった。いわゆる理解申して来た訳です。
勿論願う氏子におかげを授けながら、理解申して来た。そこで例えば今日からはです。末々まで繁盛致すこと。氏子ありての神、神ありての氏子。上下立つように致すという、神様の一番の願いの所に入って行くと言う。例えば理解を申し聞かせて下さっても、只詳しくなったと言うだけではいけないでしょう。又今日迄おかげを受けてきた、おかげと言うのは、それこそ数知れずです。おかげを蒙って参りました。
昨日四時の御祈念を、仕えさせて頂いております時に「聞く世界より、見る世界へ」という事を頂きました。千九百七十三年一月十二日今日。今日を境にですね。そういう聞く見る世界へ、合楽の信心が入って行く事になるんです。それはどう言う事かと言うと、私もそういう深いものとも、感ずいてなかったですけれども。例えばいつも申しますように、ラジオ的信心の徳とでも申しましょうかね。
それがようやくこの近所だけしか聞こえないと言った様なものから、全国の津々浦々の所まで、聞き取れる程しのラジオの徳から、この去年の十二月の、大体報徳祭を境に、テレビの徳に変わったと言う御理解を、何回も頂きましたですね、と言う事はね、今日私が申します聞く世界から、見る世界への事だったんです。今迄はラジオで聞くだけの世界が合楽。皆さんは聞くだけの世界。言うならば二十年間いわば御理解を聞きに聞き、頂きに頂きしてきた、二十数年間だったと言う事になります。
聞いて来た。これからはね合楽では、見せていく世界がある。開けて来るのです。何を見せるかて勿論私は、おかげだと思いますね。おかげを見せる世界。ですから御理解と言うものは、もう皆さんに伝える必要がなくなって来たと。今日から恐らく今迄どんな事があっても、三十分間でしたよね御理解が。朝の貴重な時間ですよね、三十分間と言う時間は。今私の御祈念から頂きて下さる方ならば、四時からですから、五時に私の御祈念が終わる。五時から若先生の御祈念が五時半迄かかる。
五時半から三十分間、きちっと御理解を頂くんですから六時迄かかる。それから皆さんがお取り次ぎを頂きなさらなきゃならん。それでも皆さん私は本当に感心します。改めて感心する事はね。朝の忙しい時間にケソケソする人が一人も、合い楽でいなかったと言う事ですよ。もうこれは驚きです。それどころか所謂この様に、例えば教典を開いてノートを持ってそれこそ聞き漏らすまいとして、一生懸命それをノートされると言う姿勢などは、本当に見上げたものだと私は思うです。
御理解が長いけんで途中でサワサワしたり、と言う事がない。まぁ聞かせる事も聞かせたが聞くことも聞いて来たなと思いますね。これはもう本当に不思議です。所謂今日御理解頂きます、理解申して聞かせと言う所に、焦点が置かれてあった訳です。おかげも段々と授け乍ら理解申して来ることに、二十年間掛けられた。それを又皆さんも受けてきた。聞く世界から、そこでいわば末々までも繁盛致す事。氏子ありての神、神ありての氏子と言う、天地金乃神様の一番の願いの所に入って行くのです。
只おかげは受けた、話は聞いて詳しくなった。けれども一代仏で終わると言う様な、お道の信者がどの位今までにあったか分からんのですよ。けれどもここん所を頂きますとですね。もう愈々信心の徳になり、それが子孫に迄所謂子孫繁盛家繁盛のもとになり、それだけではなくてです、その子孫繁盛家繁盛が、そのまま神も助かり氏子も立ちゆくという所の、働きになって行くと言う事。
私共が最近五つの願いと言う、願いが打ち出されてその事を一生懸命願わせて貰う。体の丈夫のおかげも家庭円満のおかげも、子孫繁盛家繁盛のおかげを頂くという事も、全てが真実の御用が出来ます事の為に、天地金乃神様の願いであるところの、神願成就の事の為に私共が奉仕させて貰うと言う事がです、ここです末々繁盛致すこと氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様に致すと言う所なんです。
ですからこれからの合楽は、ここの所に焦点が置かれ、ここに置かれなければならないという事信心が。言うならば聞く事よりも、実行して行くという世界。そこにです私は、五つの願いが出された所の、大きな理由があったとこう思うのです。そしてそこにハッキリおかげを見ていく。これも四時の御祈念に頂いたんですけれども。初めに映画俳優に大川橋蔵と言う人がおりますね。大川橋蔵をクローズアップして頂いたですから、どういう事だろうかと思わせて頂いた。
そしたら所謂おかげの彼方と言うかね、おかげの彼岸なんです。これは例えばここを頂く事の為には随分と、例えば向こうの岸に行こうと思うならば、その橋がないならばもう随分と、遠回りをしなければ行けない。いや只こちらから見るだけで、行く事の出来ない世界に、大きな橋が掛かったと言う事はどういう事かと言うと、今合楽で五つの願いに打ち揃うて、この願いに賭けておる。私がもう急き立てる様に、この舟に乗り損ないなさんな。この舟に乗りそこのうたら。
又何時この舟が出るやら分からんとよと、私が言う様な意味のですね事なんです。ですから今こそ合楽で言われておる信心に便乗させて頂いて、今までどうにも出来なかった、おかげの世界に、私共が到達させて貰わなきゃならん。今までこちらから見るだけであった世界にです。私共が実際にそこに住まわせて頂けれる程しの、おかげが受けられる。そういうおかげをこれから見て行くのです。
見る世界と言うのは。ですからどうでも愈々、五つの願いの内容と言うものを、私共が分からせて頂いて、所謂御理解三節の前半の所を、先ほど説明申しましたがです。それは今まで自分達の思い違い、考え違いの事によって、難儀の元と言うものを作って、神様へのご無礼になっておる事が、難儀の元になっておる。これからは、生神金光大神を差し向けて、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせて。
私共はだから合楽で、御神縁を頂いておる人達は、言うなら思い違い考え違い的な所から卒業して、そしてその訳を理解申して聞かせて頂いてきた、今日迄であったという事です。ですからこれからは全然、言うて聞かせんと言うことじゃ無くてです、もう言うならば生粋の事。一言聞いたらその一言の、奥の奥を感じ取らせて頂けれる信心を、これから頂いて行かなければならないという事です。
浄土真宗の法然上人様は、日に七万遍、南無阿彌陀仏を唱えられたと言われておる。そのお弟子で、沢山あった中に親鸞があった訳です。殆どの人はです自分もだから、法然上人のように念仏の行者になろうと、念仏を唱え様という所に目を付けたと言うのです。ところが親鸞上人は、唱えると言う事じゃなくてです、唱えようと思い立つと言う所に、目を付けたと言われております。唱えるのじゃない。
思い立つ唱えようと思い立つ心。例えばそんなら五つの願いなら五つの願いと言われるから、これをご神前に向かうたんべんに、繰り返し唱えなさいと、こう言うておられる。だから、唱えなさいと言われるから、唱えるのではなくてそれがもう、唱えずにはおられんと言う信心なのです。それは五つの願いの最後の、神様の願いという所がです。そこん所が願わずにはおられんから、この三つの願いも願われて来るという信心。
そこからです私は今まで、聞いて来た世界から見る世界へ、入って行けれる信心があると思うです。今まで只こちらから見ておった世界、言うなら聞くだけは聞いた世界。そこに現在、合楽の五つの願いと言う舟が出る事になった。そこでその舟に私共が便乗させて頂くという事は、今までは只聞いておっただけの世界、所謂そういうおかげの世界に、住み替えようと言う神様の願い。そこん所をです氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致すと言う、私共の願いと神様の願いが。
本当に成就していく世界に、私共はこれから住まって行かなければならない。私共は今まで聞くだけの世界から見る世界。だからその聞く見るという世界ですから、もう聞くという事は、今までの半分で良いという事になった訳です。ですから今まで三十分であったら十五分の御理解。十五分間だけは、皆さんが早くお家に帰られる事になる。その十五分だけをです。今まで有意義に、実行する事の時間に。
切り替えておいでなさればなりません。ただ十五分間だけを務めると言うのじゃないですよ。そういう意味なんです。愈々私共の三つの願い、一二三の願いが成就すると同時に、三、四の願いが成就した時に初めて、この御理解三節に教えておられます所の、神様と私共が共々に助かる。所謂信心共栄の道と言うものが、開けてくる。そん為には、唱えねばならないのでなくて、唱えずにはおられん心を頂こうと、まずは思い立たして頂くことだと思うですね。
どうぞ。